はじめに|「母親」という肩書きの重さに、涙が出た夜
「こんなに頑張ってるのに、どうして“ダメな母親”って思ってしまうんだろう?」
育児の合間、子どもがようやく寝ついた深夜2時。
泣きじゃくったあとようやく静かになった我が子を見つめながら、私は目の奥に熱いものを感じていました。
母親になってから、毎日が「初めて」の連続。
そのすべてに正解がなく、「ちゃんとできているか」「足りないんじゃないか」と、自分を責める時間が増えていきました。
SNSにはキラキラしたママの投稿、
育児書には“あるべき姿”が語られていて、
実母や義母からも「昔はこうだったのに」と無邪気な言葉が降ってくる。
誰も責めていないはずなのに、なぜか私はいつも「理想の母親像」に追い詰められていました。
「理想の母親像」って誰が決めたの?
私が「母親」になった日、それは同時に「女性としての私」「人としての私」との関係が大きく変わった日でもありました。
それまで私は、自分のために時間を使い、
自分のためにお金を使い、
「自分がどうありたいか」を基準に毎日を過ごしていたと思います。
けれど、子どもを授かった瞬間から、その軸が変わっていくのを感じました。
「この子を最優先にしなければならない」
「母親として、ちゃんとした存在でいなければならない」
「子どもに恥ずかしくないように、完璧を目指さなければいけない」
そう思えば思うほど、心は苦しくなっていきました。
■ 社会が求める“母親”とは?
「母親なんだから、〇〇するのが当然」
「母親なら、子どもが最優先」
「母親なら、文句を言わずに頑張るもの」
こんな言葉、どこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
私自身、「母親はこうあるべき」というイメージを知らず知らずのうちにたくさん抱えていました。
でも、それって誰が決めたものなんでしょう?
社会?親?学校?メディア?
…もしかしたら、「私自身」かもしれません。
■ “ちゃんとした母親”でいなきゃいけないプレッシャー
- 離乳食は手作りじゃなきゃ
- おもちゃは知育系がいい
- 怒鳴ったりイライラするなんてダメ
- テレビやスマホを見せるのは悪影響
- 常に笑顔で、子どもと向き合うべき
そんな“理想像”を勝手に自分に押しつけて、
できなかった自分を責めて、
心がすり減っていく日々。
でも、本当にそれって「子どものため」だったのか?
それとも、「世間からの評価」が気になっていただけなのか?
今になって思えば、当時の私は、誰かからの評価を得るために“良い母親”になろうとしていたのかもしれません。
私の中にある「理想」の正体|誰に褒められたかったんだろう?
ふとした瞬間、私は気づいてしまいました。
「私は誰に、どんなふうに褒められたくて、こんなに“理想の母親像”を追いかけてるんだろう?」
本当は、誰もそんなに厳しい基準を求めていないのに。
子どもは私を、“お母さん”という存在として、ただただ好きでいてくれているのに。
それなのに私は、自分で勝手にハードルを上げて、
それに届かない自分を責めて、
毎日のように「これでいいのかな?」と不安になっていました。
■ 比べる対象が多すぎる時代
SNSでは「映える育児」があふれています。
栄養バランスばっちりの離乳食、手作りおもちゃ、子どもとの丁寧な関わり…。
もちろんそれは素敵なこと。
だけど、四六時中それを“基準”として見ていたら、息が詰まってしまう。
私は気づけば、「誰かと比べること」が日常になっていて、
それが自分の育児をどんどん苦しくしていました。
■ 自分の母親像とのギャップ
私の母は、いわゆる「昭和のしっかり者」。
手料理、掃除、片付け、しつけ…。
とにかく何でもきっちりしている人で、私はそんな母を尊敬していました。
でも同時に「私は、母みたいにはできない」とも思っていました。
家事が苦手な自分。
イライラしてしまう自分。
仕事と育児の両立に疲れ果てている自分。
そんな自分を「母親失格」と思ってしまうこともありました。
でも、私は母ではないし、子どももまた違う存在。
比べることに意味なんてないのに、なぜかそこに縛られていたのです。
子どもの一言に救われた日|「ママ、だいすき」って言われた朝
ある朝、保育園に送る準備をしながら、私はバタバタと子どもに声をかけていました。
「早くして!靴履いて!もう時間ないの!」
余裕も笑顔もなくて、ただただ焦っていたあの朝。
子どもはムスッとした顔で立ち止まって、
そして、ぽつりと言ったのです。
「ママ、こわい…。でも、だいすき。」
――その瞬間、私の中で何かが崩れ落ちました。
■ 子どもは“今の私”を見てる
どんなに余裕がなくても
どんなに怒ってしまっても
子どもは、私のことを「怖いけど、大好き」と言ってくれた。
理想でも、完璧でもなくていい。
“今の私”を、ちゃんと見て、受け止めてくれてる。
この子にとって私は「ママ」以外の何者でもなくて、
そしてその「ママ」は、“がんばってる私”そのものでいいんだと。
■ 「いい母親」じゃなくて、「私らしい母親」でいい
そこから私は少しずつ考え方を変えていきました。
・完璧じゃなくてもいい
・全部手作りじゃなくていい
・時には泣いてもいい
・疲れたら休んでいい
そう思えるようになったのは、
子どものあの一言があったから。
「ママ、だいすき」
たった5文字のその言葉が、私の心を救ってくれたのです。
“できない私”を認めることの強さ|弱さじゃない、受け入れる勇気
私はずっと、「できない自分はだめな母親だ」と思っていました。
朝から晩までずっと子どもと一緒にいられない。
料理も手抜きになってしまう。
子どもの癇癪にイライラして怒ってしまう。
そんな自分に罪悪感を抱えながら、
「もっと頑張らなきゃ」って自分を追い込んでいた。
■ “頑張ってる”のに苦しいのはなぜ?
私たち母親って、
誰に言われなくても頑張ってしまう生き物だと思います。
子どもが熱を出せば仕事を休み、
保育園の準備を寝不足の中こなし、
家庭と仕事のバランスに悩みながらも、
いつも「ちゃんとした母親」であろうとしている。
でも、どんなに頑張っても
「できなかった部分」ばかりが目について、
自分を責めてしまう。
頑張ってるのに、苦しい。
そんな日々が続いていました。
■ 弱さを出すこと=甘えじゃない
あるとき、友人にこんなことを言われたんです。
「あなた、十分頑張ってるよ。できない日があったっていいじゃん」
最初は「いやいや、私なんて…」と反射的に思ったけど、
その言葉に、じわっと涙が出ました。
“できない自分”も、ちゃんと自分なんだ。
完璧じゃない日も、あるのが普通なんだ。
疲れたって言ってもいい。泣いてもいい。誰かに頼ってもいい。
そう思えたとき、
肩の力がふっと抜けて、呼吸が少し楽になった気がしました。
■ 子どもに見せたいのは「無理してる姿」じゃない
私は気づいたんです。
「子どものために無理して頑張ってる姿」じゃなくて、
「自分を大事にして、幸せそうにしているお母さん」の方が、
きっと子どもにとっても安心できる存在なんじゃないかって。
笑顔が作れない日もある。
イライラしてしまう日もある。
でも、「そんな自分も受け入れる努力をしてる母親」でありたい。
弱さを見せることは、恥じゃない。
むしろ、そこにこそ“母としての強さ”があるのかもしれない。
他人軸から自分軸へ|“わたし”が大切にしたい子育て
■「いい母親ってこうでしょ?」の呪い
子育てをしていると、
どうしても他人の目が気になりますよね。
SNSで見るキラキラしたママの投稿、
「◯◯ちゃんママは毎日手作り離乳食なんだって」とか、
義母の何気ない一言に傷ついたり…。
自分が選んでやっているはずの子育てなのに、
気づけば誰かの評価や常識を基準にしていて、
「それと比べて私は…」って落ち込んでばかり。
■ 「自分らしい育児」ってなんだろう?
一度立ち止まって、考えてみたんです。
私が本当に大切にしたい子育てって、なんだろう?
・子どもが安心して甘えられる場所をつくること
・気持ちを言葉にできるように寄り添うこと
・一緒に笑ったり、泣いたり、成長を喜び合うこと
それって、どれも「母親として完璧であること」とは違っていて、
むしろ「私らしく、無理しすぎず、心から子どもと関わること」だった。
■ 比べるのは“昨日の私”でいい
他人と比べてできないことに落ち込むより、
昨日より少しでも心が穏やかだった自分、
昨日よりちょっと優しくなれた自分を、
ちゃんと見つけてあげようと思ったんです。
1日ずつ、子どもも私も成長している。
それで十分。
■ 子どもの笑顔が、私の正解
完璧じゃなくても、
子どもが私の顔を見てにこっと笑ってくれる。
「ママがいい」って、甘えてくる。
その瞬間に「あぁ、私の子育て、間違ってないな」って思えた。
子どもの笑顔は、私にとっての“答え合わせ”。
どんなマニュアルよりも、正解の証拠。
おわりに|“理想”よりも、“今ここ”の私を愛したい
子育てをしていると、
「理想の母親像」に押しつぶされそうになること、たくさんありますよね。
毎日笑顔で、家を綺麗にして、子どもに優しくて、手作りの料理を並べて…
そういう“理想”を目指すことが悪いとは思いません。
だけど、それに縛られて苦しくなってしまうなら、
一度その理想を疑ってみてもいいのかもしれません。
「私は、何のためにこの理想を追いかけていたんだろう?」
「それって本当に“私”が望んだ姿だった?」
そうやって立ち止まる時間が、私には必要でした。
母親として、社会人として、1人の人間として。
完璧じゃなくていい。
むしろ、不完全なところもあるからこそ、
子どもに「失敗しても大丈夫」と伝えられるのかもしれない。
私たちは、母親である前に「ひとりの人間」です。
疲れることもあるし、泣きたくなる日もある。
時には逃げたくなることだって、当然です。
でも、そんな日も、
子どもはちゃんと私たちを“ママ”として愛してくれている。
完璧じゃなくても、十分愛されている。
これからもきっと、「理想」と「現実」の狭間で揺れることはあると思います。
でも私はもう、自分を責めすぎたりしない。
誰かの“理想”ではなく、“今ここにいる私”を信じたい。
そして、同じように悩んでいる誰かが、
この文章を読んで、少しでも肩の力が抜けたら嬉しいです。
母親であることは、誰かになることじゃなくて、自分自身を深く知っていくこと。
そう思えるようになった今日この頃です。
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